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You feel you're lonely, and you may deserve it.

 

 この1年間、定期的に遊んでくれる人たちがいました。

 遊びにいくだけじゃなくて、LINEのチャットとかテーブルを囲んでいろいろな話をしました。好きな本や映画の話から始まって、感情とか、人生とか、いつも連想ゲームのように話は拡がっていった。中高生の頃に、顔の見えないコミュニケーションは空しい、みたいな考え方を刷り込まれてきたけれど、必ずしもそうではないなと思った。逆に、自分の考えたことや想いを冷静に長文にして送る、また受け取った長文を読む感じは好ましかった。顔を合わせているときは昔の話が多かったかな。その人たちの昔の話を聞いていると、ああ、だからあなたはそうなのね、とその人たちの人物像が裏付けられてゆくような気持になった。

 今まで経験したことないほどの言葉のやり取りがあって、そうして1年過ごして気付いたことのひとつは、三者三様の寂しさがあるんだなということです。三者三様に他人への接し方があって、それによって幸せな瞬間と不幸せな瞬間があって、埋められない寂しさがある。そして、その寂しさは私たちそれぞれに相応しいんだなあ、と。

 相応しい、というのはどういうことかというと、そりゃそういう振る舞いしてたらそうなるでしょ、と冷たく突き放したくなる一方で、そういう振る舞いしてるからそうなれるのね、と感心するところもあるということです。それぞれがそれぞれの性質に固有な寂しさを引き受けているんだなと、そう気付いてとてもほっとした。

 

 実をいうと、私は、自分に関しては「私の寂しさは私に相応しい」と考えてきました。

 私は、気に入った人には自分から話しかけたりごはんや遊びに誘ったりして積極的に近付くし、大切な友人には心底優しいけれど、それ以外の人にはほぼ無関心です。どうでもいい愚痴に相槌とか打てないし、どうでもいい自虐にフォローとかできない。適当に話を合わせられないので当たり障りのない話題すらちょっと怪しい(どうでもいいというのがすぐ顔に出るらしい)。別に自分の好きな人以外からの評価なんてどうでもいい、私の大切な人にだけ強烈に優しくしたいと思って、人間関係を構築してきました。そういうのを続けるとどうなるかというと、学年に友だちが10人もいなくて、それは別に惨めでもなんでもなかったけれど、たまにふと、ああ、私って友だち少ない寂しい人間だなあと感じていました。学年のスポーツイベントとかクラスの打ち上げとか苦痛だったなあ。その一方で、他人の顔色窺ったり話合わせたりどうでもいい話に相槌打ったり、そういう苦手なことやってないから寂しいのも当たり前だよなと納得もしていました。

 でも、それは納得というより説得で、正直こんなふうに自分の寂しさを正当化しているのは私だけだろうとも感じていました。普通の人はちゃんと私が苦手なことをできていて、周りにいるたいして馬の合わない人ともちゃんと仲良くできて、寂しさとは無縁なんだろうな、と。

 

 私とこの1年遊んでくれていた人たちは、私が苦手なことをずっと当然のようにやっている人たちで、いわゆる人当たりの良い優しい人たちで、正直こういう人になれたら寂しさから脱け出せていいだろうなと思ったこともあったけれど、やっぱりその人たちにもその人たちなりの別の寂しさがあるんじゃないかなと感じました。自分の大切な人には優しいけれどそれ以外の人には無関心な私が感じるのとは別な、寂しさが。

 

 英語に、"deserve"という単語があります。何かを受けるに足るとか、何かにふさわしいとか、そうなって当然とか、良いことにも悪いことにも使われます。

 私は、人が感じる寂しさって、その人がdeserveしているものだと思います。良くも悪くも、その人の性質の生み出した結果なのかな、と。この記事を書き出したのが2014年の9月なので、ほんとにずっとこのことを考えてきてたんですけど、この1年で前向きに納得することができました。よかったね。